Incomparable H

海外暮らし あしかけ25年

電車男

昨夜は、クレアが『電車男』が見てみたいということで、ネット上で探して英語の字幕つきを見つけてダウンロードに成功しました。結構夜遅かったのですが、上映会を始めました。邦画に特有のスローさ&退屈感もなく、最後まで見ることができました。なるほどね。FB をテーマにした『ソーシャル・ネットワーク』にも似た映画ですな。マースでバイトをしているとき、いろいろの人がこの話をしていたのを聞いていたのは何年前でしょうかね。

原発に関する田原&孫の対談があるというので、Ustream で途中からですが見始めました。そこで感じたのは田原氏はあきらかに容認派(原子力以外の合理的な代替エネルギーはないからという立場でしょう)、孫氏は容認派だったけれど、今回の事故でショックを受けたという立場でした。田原氏には老害を感じるとともに、孫氏の立場は僕のものに近いなと思いました。
http://www.youtube.com/watch?v=cqiqkr9JKsE

続けて、『朝まで生テレビ』の今年3月26日付けの原発に関する議論が Youtube で見られることになっているのを見つけました。そこで感じたのは、僕は初めてみることになるホリエモンという人がかなりまともなことを言っているという点です。
http://www.youtube.com/watch?v=vTKDGZPbIRc&feature=related

その後に、20年前の1988年に同番組で行われた原発議論を少し見ました。ここでは、既に他界している大島監督や作家の野坂氏など懐かしい面々を見ることになったわけですが、そこで繰り広げられている議論のなかで紹介される想定される事故の話などは、まったくもって現在の状況を反映していると思いました。

これは歴史家としての第6感みたいなものに由来するもので、何か明確な根拠があるわけはないのですが、ここのところ僕が考えているのは、政官民のおぼろげな合意のもとに植民地経営&第2次世界大戦の泥沼に日本がのめり込んでいった様子と、戦後に原子力政策が国家戦略の要になっていくプロセスの間には、何となくパラレルがあるなということです。理性的に考えればマズイと分かることではあるのに、あらゆるレトリックを駆使して非合理的なものが合理的なものへと20年から30年かけて人々の受け取り方が転換していくのですね。この問題をそのままにしておくと、結局のところ日本人は歴史から学ぶということには疎い人々なのではないか?という結論に達してしまうようなきがします。提案なのですが、原発推進派のレトリックとそのインパクトにかんする分析というのはインテレクチュアル・ヒストリーの博士論文のテーマにふさわしいと思います。誰かやりません?