Incomparable H

海外暮らし あしかけ25年

ミヒルのパーティ

今日もオフィスではなく、家で缶詰状態でした。オフィスは郵便や印刷・コピーには向いているのですが、同僚と一緒にとるランチとオシャベリに時間をとられ、お客が来たり、話し合いやレクチャーその他のことで、結局のところ3時間も実質的な作業時間を取れれば良いほうなのです。それに比べ、家では集中力さえ続けば自由にぶっつづけで6時間は取れます。その後はどんなに続けても集中力が落ちるので効果はありません。また、僕の場合、執筆中で缶詰状態にいるときはココロが荒れるし、物忘れも多くなるので、なるべく動かないほうが良いようです。ということで、今週一週間は家に閉じこもっていました。

で、何とか一山こしたところで、今夜は同僚のミヒルの家で研究所のパーティがあります。> なかなか楽しいものでした。鍋蓋氏はあいにくのカゼでダウンということで寂しかったのですが、パーティは非常に盛り上がりました。クリストフ一家やハンス夫妻の車に同乗したアダム君たちは先に帰ってしまったのですが、その後もダヴィデとクレアとで最後まで残り、久々にダイハード・ピープルとなりました。


僕がこのブログで原発の問題を書いている折に、巷では歴史家が時事問題に口を出すのはいかがなものか?という声も上がっているようです。ひとこと言っておくと、僕にはこれが単なる時事問題ではなく、もっと哲学的なというか、形而上学的な、あるいは人間心理の問題に思えるのですよね。なぜ人は合理的ではないと分かっているのに、そのことを省みないのか?という。

僕はものを書きながら考えるたちなので、この問題を考える上でブログを活用しているわけですが、疑問の答えはだんだん見えてきています。結局のところ、原発核武装の準備として存在していて、日本が世界の舞台で二流・三流国として扱われることに憤慨している人々の思惑の産物なのです。そして、それがいつの間にか甘い汁に群がる原子力・マフィアの巣窟となってしまったのです。

日本が国際舞台で尊敬されないのは第2次大戦の敗戦国だからとか、そういう次元の問題ではなく、文化的な発信力がひ弱だからです。世界的には、意味あることを発信しないことは、存在しないことに等しいのです。最近マンガが加わりましたが、今でさえ基本的にはゲイシャ、カラテ、サムライ、ハラキリ、カミカゼ、ゼンに象徴されるのが日本なのです。これで国際的な威厳も何もあったものではありません。文化的に未熟に見える野蛮な国家が核武装したって、しょせんパキスタンや北朝鮮みたいなものじゃないですか?それで威厳が増すとは思えません。国際社会で、あ〜う〜としか聞こえない覚束ない言語力で、ロジックのない意味不明なことしか発言できず、宇宙人的な行動しか取れない人々が尊敬されるわけないじゃないですか?人類史上でかつてない最悪の惨事に見舞われたのに、その元凶のシステムを何の検証もなしに再稼動させるというのは、どう考えたってロジックに合わない宇宙人的な行動にしか見えないのですよ。それで国際的な威厳がどうのと言えるメンタリティが良くわかりません。

一歩引いて、学問の世界について考えるとですよ。第2の敗戦にも例えられる今回の震災と原発事故の影響は非常に大きく、日本の没落の象徴だと思えるくらいで、今後は今現在のような経済力や、ひいては学術振興のファンドも急激に先細りして、今までのような学問の世界の維持も難しくなるのではないかと思えるのです。そう考えると、やはり海の向こうの他人事ではないのですよね。